2007年4月1日日曜日

知覧の桜




九州新幹線で鹿児島中央駅に着いたら、ずいぶん立派な駅だ。
前からあったのかと聞いたら「西鹿児島駅」を新幹線の駅にしたそうだ。
それなら良く覚えている。
学生時代の長い春休み、冬の北海道を旅行した
。雪の札幌を出て、本州に渡り、急行「八甲田」でのんびり帰って来て、上野駅に朝9時前に着いた。
しかし、アルバイトで稼いだ金と、暇もたっぷりある。まだ帰りたくない。
東京駅に行って時刻表を見たら、もうすぐ急行「西鹿児島」が出る。
自然に乗り、西へ向かった。
雪の札幌で着ていたフード付きの厚いコートは、すぐにいらなくなり、翌朝西鹿児島駅に着いたら暑かった。

40年ぶりの元西鹿児島には、都城に居る上田さんが迎えに来てくれていて、そのまま知覧へ。
知覧は、終戦の年の4月から約3ヶ月間の間、沖縄に集結した米艦隊に特攻し戦死した1035人の隊員の遺品、手紙、遺書、絶筆が、平和祈念として展示してある。
このところ、幕末から終戦後までの、事実を元にした吉村昭の歴史小説を立て続けに読んでいるので、現場に来たわけだ。
日本人として一度見ておかなければならない。

逝った隊員の手紙、短い遺書や絶筆、どれを見ても胸が痛くなる。
文章は、切々と訴える。
写真は、死の直前にどうしてこんなに朗らかに笑っているのだろうと、不思議だ。
静かで厳粛な展示室のあちこちでグシュグシュと鼻をすする音が響く。

隊員の締めていた寄せ書き入りの鉢巻きがある。何でこれがと思って解説を読んだら、突っ込まれた戦艦の米兵が、飛び散った特攻機と隊員の破片の中にこの鉢巻きを見つけ、保管し、戦後遺族に戻されたのだという。
遺書には勇ましいものが多い。どうして? と、不思議だった。
しかし、隊員の中には、地元の女学生などに、隊に出すのとは別の手紙を自宅に送ってくれるように託していた人もいた。託された人は自分の名前ですぐに隊員の親に郵送したという。検閲されていたのだ。
出撃したものの、何回も「故障」で戻ってきた隊員もいた。整備兵は、絶対に故障ではない、と考えながらも、大きな声では言わなかったのだろう。しかし、この隊員も最終的に逝った。
優秀な多くの若人を失った。皆二十歳前後、一番年少で17歳。
彼らが生きていたら、日本で、世界で、どれだけ素晴らしい仕事をしただろうか。

平和会館の外は、桜が満開だった。
知覧の桜は、知覧以外の桜とは違う桜だ。
人の命がにじみ出た桜だ。
宇宙の貴重な生命と意識を大切にしようと、桜は言っていた。
ここは、自分の生き方と、平和を考える人は、行かなければならない場所だ。

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